無題
Exif情報
メーカー名 RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
機種名 PENTAX K-3 Mark III Monochrome
ソフトウェア Capture One 6 Windows
レンズ
焦点距離 50mm
露出制御モード 絞り優先
シャッタースピード 1/200sec.
絞り値 F8.0
露出補正値 -0.3
測光モード 中央重点測光
ISO感度 1000
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2460x1687 (3.3MB)
撮影日時 2023-07-17 00:45:24 +0900

1   kusanagi   2024/2/4 21:57

歌詞
https://www.uta-net.com/song/62063/
綾香さんは30代半ばですか。つぶあんさんより世代は若いです。歌唱力があり人気歌手ですか。
まあ私が気に入っているだけで取り立ててつぶあんさんへのメッセージというわけではないんです。
でも、歌詞の中で、「光差す方へ」とか、「想い重なり花開く時」「信じていれば叶うから」、というのは、
つぶあんさんにも相応しいかなと思ってます。

写真に於いて、普通の人が撮るのは自分への記録写真です。実は私もそうでして記録写真しか
撮っていません。今の若い人がスマホで観光地で自撮りするのもそう。自分がそこに行ったよ、って
いう、存在証明なんていう大げさなものでもないくらいの記録写真なんですね。
それがアルバムとして積み重なってくると結果的に個人史という存在証明になるのかも知れません。

しかし写真を趣味とするアマチュアの人達は少し違います。最初から美学的な創造性を目指してます。
そこは普通人(写真には素人)と、アマチュア&ハイアマチュア人の大きな違いです。ですからアマチュア
は高価な機材を投入するんですね。つぶあんさんだって、リミテッドレンズを使っているじゃないですか。
普通人だとコンパクトで便利な標準ズームを使うはずです。私も標準ズームばかりで撮影してますから
普通人の仲間ですよ。(笑)

とはいえ、この記録性と創造性は明確に区別するものではなく可変連続的なものですから。私だって
偶には創造性に引かれて撮影することがあります。
創造性に大きく振っていると思われる、つぶあんさんの写真も、見方によっては自分自身の記録で
あり存在証明とも言えますから。それはつぶあんさんもご指摘されているとおりです。

観光地に行く普通の人が、眼前に広がる光景を味わっていないということはないと思います。つぶあん
さんのように時間をかけて細部を見ないだけで、彼らなりにスピーディに見ているのですよ。
例えば私が山道を歩くとき、行きと帰りが同じ道の場合には、行きでは徹底的に道を覚えます。木々とか
岩とかの様子を頭に叩き込みます。帰りはその記憶を元に確認しながら歩くんですね。そうしないと
道に迷ってしまうからです。特に山深い奥山ではこの記憶能力は必須であって、遭難を防ぐことに繋がり
ます。何よりも大事なのは方向感覚であり、これは記憶とそれを基にした演算の結果です。
そういう場合、細かな細部は観察もせず記憶もできません。何よりもスピードが大事です。のんびりとは
出来ないんですね。山道を歩くには自分が撮った写真なんて役に立ちませんから。
観光地でも同じであって、忙しいスケジュールを円滑にこなす為には時間をかけて観察をしている暇は
なく、それなりのスピードで彼らも風景を堪能しているというわけでしょう。


そうですか。子供のころに登った山に登られましたか。おめでとうございます。(^^ゞ 
まずはそこから出発ですね。山の地主さんに聞いても何も分からないと思いますよ。先祖代々から受け
継いでいるだけで大した話は得られないでしょうから。
今はまだ小さな山でしょうが、これから徐々に大きな山に登られることをお勧めします。大きな山だと麓
は個人の土地ですが、上の方は国有地となります。道に迷わないように事前の準備(山道の調査)をして
登ってくださいね。とにかく徐々に体力を付けながら山に挑戦するのがコツです。

山に物質世界と精神世界があるというのはそのとおりです。物質世界とは山を経済的に利用する立場
ですね。畑があったり植林をしていたりします。昔は山から落ち葉などの肥料や炭焼きなどの燃料も
得ていました。
川があれば、その水を平野部の水田に利用します。水は山から得られるのであって特に重要です。
精神的には山は山岳信仰と深く結びつきますね。身近には麓に地蔵巡りなどがあって、地元の人々
の身近な信仰の対象となります。
山岳信仰は、私が少し前に訪れた平安時代の山寺の廃寺跡もそうです。深い山に仏教の修行者達が
寺を構えていたわけですよ。
山は里人にとっては経済的な支えであるわけですが、同時に山自体が人々の信仰の対象でもあった
わけですね。山は多くの人々の精神的な支柱でもあるということて、俗世間(平野部や街部)とは違う
立ち位置にあるようです。こういうのは寺の住職さんと是非お話してみてください。(^^ゞ 

投稿写真は老人が作ったろう、里山にあった下世話な看板です。いろいろと書かれてますが、大事
なのは1番だけであって、「念ずれば花開く」とは「四六時中その事が脳裏から離れない」ですか。
これは本当です。

2   つぶあん   2024/2/5 04:56

こんにちは。
「写真ってどうして撮るのだろう?」となると、それは「誰かと共有したいから」なのでしょう。
その意味で創造的な写真と記録的な写真とは同質のものだと私は思っています。
みんなカメラが好きな仲間同士だと。
みんなカメラが好きで、カメラで写真を撮る行為が好きで、そのカメラで撮った写真を誰かと共有したい。
その点はアマチュアもプロも同じ土台に立っているのだと私は信じています(信じていますは大げさですね)。

「念ずれば花開く」、「四六時中その事が脳裏から離れない」これはカメラ趣味にも似ていると思うのです。
写真を撮るのはそのカメラを使いたいからで、家でじっとしていられなくて何かの口実をさがす。
「あそこに行ってみたら何か撮れるかもしれない」
たぶん私たちは写真のためにカメラを構えるのではなく、カメラを構えるために写真を求めているのだと思います。
少なくとも私はそうで、お気に入りのレンズを使いたくてうずうずしているのですね。
そこにその人なりの哲学が加わるかどうかの違いがあるだけで、創造的な写真と記録的な写真は本質的に同じなのではないでしょうか。
「念ずれば花開く」そうしたいという気持ち。
「四六時中その事が脳裏から離れない」実際に行動したいという気持ち。
kusanagiさんがバッテリーグリップまでつけて山に登るのもまた行動だと思いますし、私が早朝にカメラを構えるのも行動なのでしょう。
私は、そのように解釈してみたのでした。

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